ちょっと前の話です。
日本アカデミー賞の主演女優賞を、映画『悪人』でヒロインを演じた、深津絵里さんが受賞しました。
彼女は、モントリオール映画賞の賞も受賞しています。
日本アカデミー賞主演女優賞を受賞してのコメントが印象深かったのですが、こんなコメントでした。
「モントリオールで受賞したときの記者会見の質問で外国人の記者の方に『なぜ、愛しあっているふたりが、『愛している』と言わないのか』と聞かれたことを強く覚えています・・・」
とのこと。
そのとき、わたしは、原作も読んでいなかったし、映画も観ていませんでした。
なので、単に、文化の違いなのか、とも思いました。
でも、考えてみれば、『なぜ愛しあっているふたりが、『愛している』と言わないのか、と問うた記者は、自分が映画をみて「ふたりが愛しあっている」と思ったから、そのような疑問を感じたのだろうから、言葉にする、しない、ということは、さほど問題ではないのではないか、とも思いました。だから、言葉なぞ、不要なのではないか、と。言葉で伝える「愛」など、信頼できるのか、とも感じました。その時点では。
この映画の脚本は、原作者である吉田修一さんが自ら手がけ、映画のなかでは、「愛している」という言葉を使いませんでした。では、原作には、あるのだろうか・・・興味をもって読みました。
すると、モントリオールでの記者の疑問の意味がわかりました。
最後に、主人公である殺人犯は警察に追い詰められます。ふたりの間では合意の逃亡ですが、警察は、彼が彼女を拉致していると考えているのです。まさに、警察がふたりの隠れ家に踏み込む、そのとき、彼は、彼女の首を絞めます。
『悪人』のなかで、彼らは行動をともにし、心の隙間を埋めあい、互いの存在を唯一無二の存在としていること、おそらくそれが「愛」であることを感じさせます。しかし、最後に、彼は、それを否定する行動をするのです。それは、「愛」を否定し、彼女を「被害者」にし、自分を「加害者」にする行為に思えるのです。
いや、しかし、よく考えてみると、これは、「愛」ではないでしょうか。彼が、自分から、自分と過ごした思い出から、彼女を解放するためにとった「愛」の行動ではないでしょうか。彼女が彼を憎み忘れていくための。
しかし、ふと、考えます。もしお互い「愛している」と告げていたら・・・
どちらが、本当の意味で彼女を自由にできるのでしょうか。。。
「言葉」にしないこと、そこに「言葉の意味」がこめられることがあるのかもしれません。
ま、どっちでもいいのですが(笑)
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