去年の今日、じりじりとした日差しが照りつけ、外に出るのが嫌だなと思う日曜日でした。衆議院議員選挙の日。そのころも、体調が思わしくなかったけれど、一票を投じに投票所に赴いたのでした。そして、自民大敗、民主圧勝が予想されるなか、投票し、歴史的な結果を待ちました。
翌々日、朝、中学の親友Hからメールが入りました。タイトルは「悲しいお知らせ」。本文を見てみると、「電話していい?」とだけ。悪い予感がしました。すぐ折り返すと、親友のMが30日に亡くなったという内容でした。
わけがわからないまま、「今日、お通夜で、明日告別式。どうする?」という話。ふたりとも、現実がつかめない。なぜ彼女が亡くなったのか、病気だったのか、事故だったのか、、、なぜなぜ、、、という心のもやもやを抱えたまま、今日と明日の予定を決めなければいけないという事務的な会話をしました。
私たち3人は、中学のときの「親友」です。「親友」ってなんだろうって思うけど、中学生らしい「親友」でした。例えば、休み時間にいつも一緒にいたり、トイレに一緒にいったり、クラスメートのことやクラスの中の揉め事を相談しあったりしていました。もちろん、好きな男の子の話も。担任の先生には「お前たちはいつも一緒にいるな」と言われたほどでした。
こんな思い出もあります。Mと私はサッカーが好きで、当時、静岡では東海第一高校が強かったのです。澤登選手がまだ高校生だったころです。澤登選手はお正月の選手権で大活躍し、彼女は澤登選手のファンになってしまいました。そこで、彼女と私は、中学卒業後の春休み、ふたりで東海第一高校まで、練習を観に出かけたのです。在来線でのろのろの旅。でも、わくわくしてふたりとも時間を忘れ、あっという間に清水に着き、高校までたどり着きました。ところが、サッカー部の練習はお休み。がっかりして帰ってきたのを覚えています。
東京で暮らしているころ、当時私は24歳だったのですが、久しぶりに彼女から電話がありました。「結婚することになったんだけど、式に出てくれる?」それが、私が「結婚式」というものに出席した最初になりました。
まさか、お葬式まで、彼女が一番になってしまうなんて・・・。
棺のなかの彼女は、やせてしまっていました。ほほがこけて、でも、そのこけたほほに紅がさされ、唇もほんのりとピンクに。だんなさんと話すと、2ヶ月前に胃がんと診断され、もう手遅れだったとのことでした。「ふたりに連絡しなきゃって言ってたんだけど、ね・・・」と声を絞って話してくれました。お通夜の会場には、憔悴しきった大人たちの周りで、子供たちの明るい声がします。棺には、彼女のふたりの男の子から彼女にあてた手紙が納められていました。
だんなさんとお子さんを残して逝くこと、どんなに心残りだっただろう。。。
それから、一年経ちました。
民主党政権になったけれど、日本の将来に対する危機感はつのるいっぽうです。この国の未来はどうなるのでしょう。子供たちが大人になったとき、安心して暮らせる社会にいなっているでしょうか。
彼女の憂いがきこえてきそうです。
日本の未来よりも自分自身の未来を心配しているのは、多くの納税者だけではなく、国会議員という職を得た人たちが一番自分自身の未来を心配しているように思います。
司馬遼太郎は遺言のようにバブル期からそれが弾けた日本をみて「この国の人々は愚かになっている」と書いて逝きましたが、あらゆるメディアに操作され自分自身を完全に見つけられない人々を目の当たりにするとき、この言葉を思い出します。自分は誰で何をするのかを、問い続けなければならないのでしょう。勿論、これは深刻な問答ではなく、「楽しい迷路歩き」だと思っています。
僕の友人だったTとは、ほとんど金の無い学生時に知り会いました。Tは既に家業を継いで、自分の車を持っていました。会社の実務は彼の母親がやっていたのですが、僕らがつけたTの綽名は当然ですが「社長」でした。
金がまったくなくなると、3食+宴会+本+囲碁+寝室付きで、彼の会社で短期間のアルバイトをさせてもらったのでした。助かりました。僕が今もっている厚生年金手帳の始まりは彼の会社です。ある時「これが無いと困るから」と、僕を社員にしてしまったのです。
僕の広告作成と編集の仕事がいそがしくなって、約10年音信不通の期間がありました。
久しぶりに電話をすると彼の奥さん(大学の同窓)が出て、Tの死んだことを知りました。
友人の死は、親族の死とは違うのだと感じます。
Tに対しては今でも「バカ野郎が!」と思います。それは自分に返ってくる言葉でもあります。このバカ野郎が!と、悔しさと虚しさが混ざった苛立たしさが消えません。
投稿情報: Harukikenn | 2010/09/04 23:13