吉田修一さんの『悪人』を読んでいて、主人公の殺人犯はこんな言葉を言います。
「誰も被害者にはなりきれん」
主人公は、小さいとき、母親に海辺に置き去りにされます。そして、成長してから、母親からお金をせびります。これは、復讐ではなく、自分が「加害者」になることで、母親を「加害者」にしないため、あるいは罪悪感をもたせないための、彼の優しさだったのではないか、と考えました。そして、母親に捨てられた自分も完全な「被害者」ではなくするという意味のこもった、彼の行為だったのではないか、と思いました。
『悪人』のなかには、たくさんの登場人物がでてきますが、どの人も、完全な「被害者」でも「加害者」でもなく描かれていると感じました。つまり、小説『悪人』に本当の「悪人」はいなかった、これがわたしの感想です。
で、原発問題です。
わたしも、広い意味で、この原発問題の「加害者」であるという意識をもっています。
それは、ひとつには、原発で作った電気の恩恵を受けてきた、ということ。また、原発推進をしてきた自民党政権(今の民主党政権も含めて)を許してきたということ。そして、わたしの親戚が原発問題に長く取り組んできていて、原発反対をし、わたし自身、原発の危険性を、おそらく一般の人よりも身近に感じ、知り、行動するチャンスがあったということ。これらが、あります。
でも、いまは、わたしは原発事故におびえる「被害者」ともいえます。
多面的に考えようとすれば、自分にあらゆる面があり、「加害者」であり「被害者」でもあります。誰かが誰かを一方的に責められてよいということは、ない、と考えたほうがいいように思います。そして、「責める」という行為は、あまり建設的ではないように感じるのです。
でも、「責めない」ことによる「損害」というものもあるということも意識しておかなければなりません。「責めない」ことで「被害者」をより過酷な状況に追い込んだり、数を増やしてしまったり・・・
大切なのは、絶えず、考え続けることしかありません。
不安定のなかに身を置き続け、それでも、心の平安を保つこと。
自分が自分のオブザーバーとなり、監視し続けること。
なにものにもよらず、従わず、立ち続けること。
難しいことですが・・・
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