なんて、小難しい雰囲気のタイトルをつけてみましたが、そんなに難しい話ではありません(笑)
わたしの父は、9年前に脳梗塞を発症し、その後、胃がん、ネフローゼ、肝機能障害など、いろいろと病み、今日に至ります。
脳梗塞の後遺症としては、右半身に麻痺が残りました。
入院生活の中でのリハビリで、なんとか、杖をついて歩けるようにはなりました。そして、退院するにあたって、家をバリアフリーにするかどうか悩みました。玄関やお風呂の段差などをなくし、スロープにするか。部屋や廊下に手すりを付けるか。などなど、いろいろ検討しましたが、結局、どれも、やめました。
当時、どのくらい回復するか、まだわからない状況にあったということもありますが、一番の理由は、便利な環境に自分の体を置かないということを選択したのです。
結果、父の足の機能は、退院当初よりも回復し、杖なしでも歩けるようになりました。
このことで、何が言いたいか、というと、「便利なこと」=「良いこと」とは限らないということです。
利便性を追求することによって、失われるもの、失われる機能があるということを教えてもらった体験でした。
最近、こんなことを耳にしました。
カーナビを付けたことによって、二次元の地図を頭の中にインプットし、三次元に変換する脳の機能が失われつつあるというのです。
わたしは、あまり遠くに出かけないため、カーナビをつけていません。
しかし、言われてみれば、初めて行く場所については、地図をみて、頭の中に目的地までのルートをインプットします。で、車を走らせる中で、地図を実際の街の風景に変換し、「あそこのコンビニを左折だったな」とか、確認しながら、運転します。カーナビをつけると、そういうことが不要になり、便利です。でも、そういう面倒な作業をすることで使っていた脳の一部を使わなくなるのです。これは「喪失」です。
逆を言えば、「不便」は、「活性化」であったり「復元」であったり「発見」「工夫」であったりするのです。
今回、浜岡原子力発電所が停止されたことにより、電力の安定供給が図られなくなるという心配も言われますが、それは、一時的なものであり、そうした「不便さ」がもたらす「恩恵」のほうに目を向けたほうが、はるかに価値があるということです。
もちろん、原発関係の仕事に従事されていた方や地元も方々は、たいへんなご苦労が想像されます。
でも、ゆっくりでもいいので、みんなで、光の見える方向に進んでいきませんか。
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