しばらく前に、お芝居を観に行きました。
タイトルは「壁の中の妖精」。春風ひとみさんのひとりミュージカルです。
スペイン内戦に人民戦線の一員としてフランコ派と戦った元村長が、内戦終了後のフランコ体制の弾圧を恐れて自宅の壁の裏に隠れ、30年をその壁裏で過ごします。その苦しみや悲しみ、怒り、不安、そして生きる喜びを、村長の妻と娘の目を通して、ときには、ユーモアを交えながら演じるものでした。
そのなかで、印象に残ったせりふがあります。
「人々の心は振り子のように揺れる」
なぜ、振り子のように揺れるのでしょう。
難しい問題ですが、ひとつ思うのは、そこに「思考する」という行為の重要性があるのではないでしょうか。といっても、それはただ単に、本を読んだり、話を聴いたり、情報を収集したり、そして考えたりということだけではないのです。本当の意味での「思考する」ということは、そのようにして得たものを自分のものとしてどう「消化」していくかということで、必要ならば、その上で、さらに、インプットとアウトプットを繰り返し、どんどん、自分の奥深くに入っていくことだと思うのです。
最近、村上春樹さんの「約束された場所で」を読んでたのですが、オウム真理教に入信した多くの人たちが、自分の「思考する」という行為を他人(教祖とか教義とか)に無条件に、そして、無防備に委ねてしまっていることがわかりました。(もっとたくさん重要なことが書かれているのですが、整理しきれていないので、また今度書きます)
たしかに、「答え」を与えてもらえれば楽です。しかし、それは、危険なことです。なにかの本を読み、誰かの話を聴き、共感することはいいのですが、それをそのまま、自分に取り入れてしまっては危険なのです。そして、そのようにして形成されたものは「振り子のように揺れ」てしまうのではないでしょうか。その危険性を回避するには、より広く深く、インプットとアウトプットを繰り返していくしかないのだと思います。
つまりは、なにに対しても、すぐに飛びつくのではなく、一旦、自分の中に置き換えてみる。自分の言葉で語ってみる。自分自身を疑い、自分自身を創っていく作業が必要なのではないかと、感じています。
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