先日の哲学カフェ「人間にとって結婚とは何か」を終えて、何人かの方が、表現は違うにせよ、似通ったことtwitterにつぶやいてくださっています。
「結婚」ということを「哲学カフェ」で話すことが適切か。「結婚」を抽象化して語ることが可能か。といったことです。
それについて、私も考えてみました。
人は、大きな風呂敷にいっぱいの感情~過去の経験からくる痛みや不安、マイナス感情、乗り越えたい壁、期待や理想など~を抱えて生きているのだと思います。自らの「結婚像」や「結婚観」を語るとき、その大きな風呂敷に詰め込んだ個人的な感情は、はずすことができないでしょう。とくに育った環境、つまり自分の両親がどんな夫婦で、自分がどんな家庭に育ったのかということは「結婚観」を形成する上で、最も強く影響を与えるファクターだと思います。これは私の主観ですが、私の友人や周囲の人々をみている限り、両親が比較的うまくいっている家庭に育った人は、「結婚」も割りと迷いなく踏み切れているように感じます。もちろん、実際、個々の家庭の細かい内情まではわからないのですが。
かくいう私も、大きな風呂敷を抱えています。両親の不仲、それによって形成されてきた自分の性格への自己嫌悪、現在患っている病気に対する不安、障害者である父を抱えている不安、などなど。あげればきりがありません。当然「結婚観」もそこからスタートするので、マイナスイメージのほうが強いです。しかし、そんな大きな風呂敷の中身を少しずつでもいいからおろしたい、とも思っているのです。そして、誰かの大きな風呂敷をちょっとでも軽くしてあげることができれば、と。
そんな私の「結婚観」とほかの人との「結婚観」を同じ土俵に乗せて話すということは、なかなか容易ではなかったかもしれないな、と思います。哲学カフェは約2時間という短い時間ですので、「結婚観」のすり合わせから話を始めるというのは、現実的ではないし、それをすると「お悩み相談」のようになってしまうからです。となると、やはり「結婚」というシステムについて語り合うしかないのだろうかと思ったりもします。(純粋にシステムについてのみ語ることが可能なのか、という問題は残ります。)
しかし、それでも、今回、哲学カフェで「結婚」をテーマにしてみてよかったのは、「結婚」を切り口として、いろいろな社会的、個人的問題がみえたという「収穫」があったことです。私個人についていえば、一番の収穫は、先日のブログでも書いたように、「実を伴って考える」ということでした。
結局、哲学カフェの目的は、自分自身のなんらかの「収穫」が得られるということが一番大切なのではないでしょうか。そして、それは、ほかの人の発言から何かを得ようと意識さえしていれば、必ず得られるものなのです。
と、あまりまとまらず、答えにはなっていないかもしれませんが、、、そんなふうに感じています。
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