これも、前にブログに書いた「優先順位」の話につながることかもしれません。
以前、ある男性が、私にこんなことを話してくれました。その男性には、小学生のお嬢さんがいます。
「うちの娘はね、選ぶことが苦手なんだよ。なんでかっていうとね、たとえば、家族でファミレスに行ったとするでしょ。みんなそれぞれメニューをみて、食べたいものを決めていく。そうすると、娘は、ハンバーグにしようかオムライスにしようか、カレーにしようかって迷って決められない。食べたいものがわからなくて決められないんじゃないんだよ。ではなくて、なにかを食べてしまうと、別のなにかを食べられなくなっちゃう。食べられなくなるほうのメニューにフォーカスしてしまうんだ。で、迷っちゃうんだね」
なるほど・・・と思いました。そして、そういjふうに、子供をみている父親ってどれだけいるだろう、と感心したのを覚えています。
これは、なにかを「選ぶこと」、イコール、ほかのなにかを「選ばないこと」、ということをあらわしているのではないでしょうか。
私は、20代のころ、ある資格試験の勉強に時間を費やしていました。当時、合格率が3%程度だったので、それはもう、朝から晩まで(実際には夜型だったので昼過ぎから翌日の明け方までですが)まるで働くようにがんばっていました。そして、一人暮らしでしたので、その合間に家事もやっていました。しかし、同時に、幼いころからの小説を書きたいという気持ちも持ち続けていましたので、いつも、資格試験と「夢」との葛藤の中にいたような気がします。で、ある日、やっと気がついたのです。Aを「選ぶこと」はBを「選ばないこと」と。そして、資格試験の勉強をスパッとやめてしまいました。結局、私はハンバーグも、オムライスも、カレーも食べようとして、全部食べきれず、よく味わうこともできず、残していたのです。
哲学者の内田樹さんが著書「疲れすぎて眠れぬ夜のために」の中でこう述べています。
「精神的にも肉体的にも、使える資源には限界というものがあります。目標を適度に設定し、資源を分配する先に優先順位をつけないと、人間は壊れます。」
人は、「選ぶこと」については積極的に意識します。しかし、そのことによって、「選ばないなにか」が生まれることを忘れがちなように思います。なにかを「選ぶ」とき、自分のキャパシティと相談し、「選ばないこと」にフォーカスしてみると、間違った選択をしてしまう可能性が少なくなるのではないでしょうか。
「選ぶこと」は、イコール「選ばないこと」なのです。
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